くまんち

なんてことない、日々のこと

言葉の力

思春期の話をしようと思う。

振り返ってみても、私の思春期は「青春」と呼べるほど美しいものではない。
特筆するほどのいじめがあったわけでもないけれど。この頃、自分の声がすっとんきょうで、いわゆるアニメ声なのだと思い知らされる程度には、まぁ、ちょっといじられた。
きっと大なり小なり誰もが経験する程度。

 

中三の、しとしと雨の降る日だった。職員室からクラス分のプリントを抱えて教室に向かう階段の踊り場、ふと窓に映る自分を見た。

パッとしない。眼鏡をかけて一層パッとしない私。

少し目線を上げると日に焼けた標語?のようなものに気づいた。

「君たちは サナギだ」

というようなことが書いてあった。どうにもはっきりと思い出せない。思い出せないけれどこの文面を見た瞬間、ハッとしたのを覚えている。

『サナギ?』 さなぎ、蛹、サナギ…

家に帰ると、ノートの端にメモした。

「サナギなのか、私」

幼少期を小さくてぷりぷりラブリー?なはらぺこあおむしに例えるならば、成長してチョウになる前にサナギになる。

受験勉強をしながら、サナギを触ってはいけないと理科の先生が言っていたのを思い出していた。
硬いサナギの中身はチョウに変態する為に一度ドロドロになる、とも。
書き殴ったノートに丸つけしながら

そういうことか、と思った。
そういうものなんだ、とホッとしていた。

ブサイクで、自分らしさを見失った何者でもない私はサナギなのか。

ならば、仕方ない。
ならば、今が正念場だ。

将来の夢もなく、自分が何者なのか、何者になれるかもわからずどろどろ沼の中にいる私をこの言葉は掬い上げてくれた。

 

ある日、友達に「これ、見た?」と例の標語を指した。きっと同じく靄の中にいる友達もこの言葉が助けてくれると信じて。

「えー?……意味わからん。失礼かね!」
えぇぇ…
「早よ、行かんば!チャイム鳴るよ!」

人を救う言葉は人それぞれだ。


成長しきって、モンシロチョウのように小さくありふれた大人になった私だけど、行き詰まるたびに「サナギの時期かも」と思うことで救われている。

思い出すたびに自分の解釈を挟みすぎて原型を留めていないけれど、忘れられたように色褪せたあの標語は、間違いなくあの日の私に届いた。

 

悩める生徒の為にあの標語を書いたであろう、顔も知らない先生
先生の思いは私を支えています。